リハビリテーション新聞: 腐ったモノサシを当てないでくれよ

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腐ったモノサシを当てないでくれよ


協同企画:の記事 25.2.17


昨日は、クライアント中心の作業療法というキーワードに触れて、強く背中を押された感覚を味わった。専門用語が理解できないので、もちろんそれを理解したという訳ではなくて、自分が分かる単語によって結びつけた印象に過ぎないことは自覚している。だからこれから発する言葉は、あくまで思い込みだ。


クライアント中心の作業療法が、クライアントにとって、あるいはクライアントとセラピストにとっていかなる作用を持つかについては、セラピストの研究が盛んに行われているだろうから、あえて自分が語る必要性はないと思うし、語るだけの見識もない。だけど、他職種を含んだ関係性についてはどうか?


検査を基盤にした訓練は、他職種からすると理解が難しい。検査に基づいた訓練は、客観的な作業のように聞こえはするけれど、他職種からすると主観的な作業に見えてしまう。検査によって様々な要素を数値化する。それに基づいてプログラムを組むのだから、
客観的だと言われると、確かにそう聞こえる。


けれども、訓練の全般を眺めていると、その手法そのものが、ひどく主観的に見えてきてしまう。要するに、部分的には客観的かもしれないが、全体像としては、セラピストのエゴの押し付けではないかと、そんな風に見えてしまう。単刀直入に言うと、クライアントの想いは何処にあるのだと…


その点、クライアント中心の作業療法は、他職種の合意を得やすい。本人の自己決定は尊重するべきという基本的合意は、職種を超えた価値観であるから、作業療法のプロセスに、他職種を巻き込むことができる。また、動作介入を早期に行うことから、クライアントの努力が、資格的に捉えることができる。


検査によって積み上げられた訓練は、ゴール設定が曖昧だ。セラピストにとっては明確なゴールが見えているのかもしれないけれど、他職種には理解できない。けれども実生活の介入は、他職種の眼からも明らかだ。ゴール設定の視える化は、訓練のプロセスにおいて、素晴らしく有意に働くと思う。


利用者の主体性に基づいた実生活の変化、またそれに向けられた努力は、他職種の視覚に訴える力強いメッセージを生み出す。この時に、セラピストのマネジメントは不要で、クライアントの努力そのものが、他職種に感動を与えて、様々な承認場面を生み出していく


要するに、検査に基づいた機械的な訓練は、あくまでセラピストの承認しか生み出さないのに対して、クライアント中心の作業療法と実動作の介入は、クライアントを取り囲む様々な職種の承認を誘発する。言い方を変えると、機械的な訓練は、セラピストの手元にいる間しか承認が生み出されない。


けれども、クライアント中心の作業療法と実動作の介入は、訓練が終って、病棟に戻り、セラピストの手から離れた環境においても、承認が継続していく。つまりその両者を比較した場合に、訓練の中身だけの評価ではなくて、ある期間の生活全般でのプロセス評価をした場合に、その質の差は明らかだろう。


意義のある作業とは何か?あるいは意義のある介護とは何か?それはクライアントにとって意義のある活動を抽出して、それを具現化するだけでは未完成である。それは他者からの承認を引き出す演出が伴って完結するのだろう。


作業項目はあくまで下絵であって、その具現化のプロセスにおいて、いかにして他者の驚きと喜びが伴った承認を絡める演出をマネジメントできるか?それがセラピストの腕の見せ所であり、他者の承認によって、作業の意義が色付けされていく。そのためには、クライアント中心の作業療法でなくてはならないと、作業療法に無知な他職種が思う。




<皆さまとの意見交換>
2008pt編集後記   代弁します。「生活を聞かず問題を定めるな!」、「治すべき生活がさだまっていないのに身体検査をするな!」、「治すべき生活がわからないくせに検査結果の改善を図るな!」、「生活が改善していないのに、あなたが一方的に定めた検査の改善を褒めるな!自画自賛するな!」    つまり、「生活改善だけがモノサシ。チーム全体で盛り上げろ!」ってことですね。