リハビリテーション新聞: 障害者を特別扱いするうちは バリアフリー社会は実現しないと思う

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障害者を特別扱いするうちは バリアフリー社会は実現しないと思う




老若男女、障害の有無は関係なく、誰もが同じように、住み慣れた地域で、馴染みの仲間と生活する社会。これが「当たり前」だという概念が“ノーマライゼーション”というものだ。この概念をもっとかみ砕くと、「共に楽しく」ということになる。


まぁ良く考えると当然のことだ。仮に、私が右脚を失ったとしたら、右脚を失った“特別な私”になるのではなく、“私”が右脚を不便に感じるだけだ。特別な生活はしないで、皆と同じように、住み慣れた地域で、馴染みの仲間と生活をするにきまっている。


ただ、正直にいうと、ノーマライゼーションという概念には、あまりに現実感がない。周囲を見渡してみると、子どもや、障害者、要介護老人を“特別なもの”としてみている。その証拠に、それぞれを隔離して、別々の箱にいれてしまっている。


「子どものため、障害者のため、要介護老人のため」 それぞれの施設が、崇高な理念を掲げて、彼らを特別扱いする。まるで、ハンセン病患者の隔離政策のようだ。彼らを、一か所に集めて、特別扱いするほど、ますます隔離は進んでしまうのではないだろうか。


あなたは、子どもや、障害者、要介護老人のコミュニティに、自然に入っていけるだろうか。私であれば、不自然になる。長続きもしない。それよりも、自分のコミュニティに彼らを招待するほうが、よっぽどやりやすい


私は、あるコミュニティを持っている。多世代農業サークル@agri_Dだ。メンバーは私の娘と、友人の姪が最年少で、2歳だ。その他、20~30代が6人、40代の保母さんが4人、50代のPTA活動が大好きなオヤジが4人だ。このメンバーが、近所の80歳代の老夫婦から耕作放棄地を借りている




活動は、月に2回程度。畑で農作業をしながら遊んで、山でBBQをして語り合うことが多い。引きこもりの青年や、職場の同僚、メンバーの子どもが加わったり、変則的なコミュニティだ。





タマネギやジャガイモを収穫したときには、すこしだけ残して、近所の小学生にタマネギの収穫体験を提供した。これをすることを口説き文句にして、土地を借りているようなものだ。耕作放棄地は、たったこれだけで、ものすごく輝く。




そして、今年の秋には、盛大なサツマイモ収穫祭をした。近所の3歳以下の子どもとその家族60人と、世話役として小学校のPTA会員20人が集まった。とても活気に満ちていた。




これぞ“まちづくり”だと心からそう思った。80歳代の老夫婦の土地を借り、50歳代のオヤジ達が音頭をとり、小学校の農機具やPTA会員をまきこみながら、地域の子育て世帯と、40歳代の保母さんたちが一緒にサツマイモを収穫するのだから、素晴らしい。




サツマイモを収穫したあとは、焼き芋つくりだ。皆でワイワイしながら、サツマイモを新聞紙やアルミホイルにつつんだ。そして、焼き終わるまでの時間は、コミュニティ自慢の竹で蒸したパエリア・炊き込みご飯をふるまった。この竹は、荒れ山に苦しむ、高齢者宅の竹を間伐してきたものだ。これで美味しいパエリアができ、ゲストに喜んでもらえるのだから、全てが輝く。






このような多世代交流コミュニティは、その地域にとって、ものすごい財産となる。なぜかというと、隔離された人にとって、ものすごいポテンシャルを秘めた受け皿なのだ。





つまり、特別な人たちが隔離された特別な場所に、私たちがはいっていくのではなく、その逆こそが正解だと思っている。隔離されたひと達を、このコミュニティに融合することこそが、ノーマライゼーションを実現する、有効な手段だいうことだ。


サツマイモの収穫祭では、3歳以下の子どもたちが見事に融合してくれた。引きこもりの青年が融合してくれたこともある。障害者や要介護老人も融合できると信じている。無理強いはしないが、適応してくれる人を切り口にして融合していきたい。さぁ「共に楽しく」の舞台は整った。


はじめからノーマライゼーションに興味があったわけではない。医療機関の理学療法士として働きながら、何人もの入院患者の退院を準備していく中で、大きな問題を感じたからだ。地域にはあまりにも受け皿がなさすぎる。せっかく元気になっても輝く場所がない。そしてまた歯車が狂いだす。


関節可動域制限が改善しても、生活が改善しないのなら意味がないと叫ぶ理学療法士や作業療法士がいるように、「生活が改善しても、地域で特別扱いされて隔離されるなら意味がない!!それなしに、なにがリハビリテーションだ!!」と、叫ぶ者がここにいる。



平成25年12月6日
筆者 Masaki Kimura